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シンポジウム(1/4)

テーマ     老いてもわたし ボケても自分
       ―成年後見は権利擁護システムとなりうるか―
内  容  (1)報告 改正民法の概要  司法書士 近藤信隆
      (2)寸劇  群馬司法書士会会員
      (3)シンポジウム
        シンポジウム 登壇者
                社団法人 日本社会福祉士会 副会長    池田恵利子
                在宅介護支援センター 愛老園 主任相談員 松井俊雄 
                群馬銀行   担当責任者
                司法書士  清水敏晶
         コーディネーター             
                司法書士  石川鐵雄

開 催 日 平成11年4月3日(土曜日)
場   所 前橋市新前橋町13番地の12 群馬県社会福祉総合センター 大ホール
(入場無料)
主催 群馬司法書士会
後援 群馬県 前橋市 前橋地方法務局 群馬県社会福祉協議会 群馬県社会福祉士会 上毛新聞社 NHK前橋放送局 群馬テレビ株式会社 エフエム群馬

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石川(司会者)
それでは、これからシンポジウムを始めます。まず最初に、ご登壇の皆様方のご紹介をさせていただきます。私の隣の方から、ご紹介したいと思います。在宅介護支援センター愛老園の主任相談員、松井俊雄さんです。日本社会福祉士会副会長池田恵利子さんです。群馬銀行業務管理部主任審査役の安藤宏之さんです。群馬司法書士会、成年後見委員会の委員長である清水敏晶です。それから私、群馬司法書士会の石川です。よろしくお願いいたします。
 私の方から、成年後見制度の大切なポイントを、二つばかりお話しして、それから始めさせていただきます。まず第一点は、この成年後見制度は、誰のための制度であるか、ということです。二つ目は、成年後見制度は、誰のどんな権利を守る制度なのかということです。まず第一のこの成年後見制度は誰のための制度かということですが、この制度は、あくまで判断能力の衰えた痴呆性の高齢者や知的障害者、それから精神障害者の方のための制度です。きわめて当たり前のことですよね。なぜこんな当たり前のことを最初に申し上げたかといいますと、実は今の制度というものが、ご本人のためではなくて、周りの人のための制度になっているという現状があるからです。ですから最初に、ここだけをポイントとして押さえておきたかった訳です。二番目のポイントです。成年後見制度は、誰のどのような権利を守る制度なのかということです。これは端的に言えば、守られるべき権利というのは、個人の意思が尊重される権利、憲法十三条にそういう規定があります。いわゆる自己決定権を守っていこうというのがこの制度です。自己決定権というのは、自分のことは自分で決めることができるという、これもきわめて当たり前のことです。それを制度的に保証していこうというのが、この成年後見制度の目的です。つまり成年後見制度を、一言で言えば、本人の自己決定をする権利、そういうものを大切にして、判断能力が低下したとしても、その残っている能力をみんなで手助けして、そうした方々を隔離した環境に置くんじゃなくて、特別の暮らしに置くんじゃなくて、社会の人々と同じような中に入れて、そして同じように生きていく、そういう制度を今作ろうとしているわけです。
 このように改正されようとしている成年後見制度が、権利擁護システムになりうるかどうかというのは、自己決定をする権利をいかに社会の中で実現していくかということにかかっているのではないかと思います。そういう意味でこのシンポジウムでは、自己決定権とそれを実現するための、社会システムということをポイントにして話を進めてまいりたいと思っています。それではこれからの進行のスケジュールをお話しいたします。まず第一点最初に人の問題を扱います。人の問題つまり被後見人と後見人の問題です。それから二番目は、お金の問題を扱ってみたいと思います。三番目は成年後見制度の将来の問題。これからの問題を扱ってみたいと思います。まず人の問題です。まず松井さんにお伺いしたいのですが、高齢者の自己決定権について何か問題はないかっていうことと、そこからちょっと痴呆と言う症状そのもの、これについてちょっとお話していただきたいのですが。
松井
自己決定権という言葉は今福祉の世界の中では介護保険という新しい制度が来年から始まるのですが、それに関連していろんな文書また書籍等に出てきます。その中ではお年寄りの自己決定権を大事にしなさい等とよく言われます。実際に現場で働く人たちはみんなどこに問題があるのか分かっていらっしゃると思うんですが、今のお年寄りが、自分で自分のことを決めて、例えば福祉のサービスを、どういうふうに使いますかと聞いたときにこうにしてほしいと、はっきりとおっしゃる方というのは非常に数が少ないのです。これは二つ問題があると思うのですが、一つは日本の今のお年寄りの世代的な性格と言いますか、特徴といいますか、誰に対しても自分の権利主張をしていくということ自体が慣れていません。自分で何かを決めるときにはっきりと物を言う方というのは非常に少ないのです。これは世代的な特徴だと思います。それと日本人的な特徴だと思います。世代が下に降りてくると、もう少し変わるかなと思います。でも欧米の人達とくらべるとはっきりと私はこうしたい、だからこうしてほしいという方はそう多くはないのではないかと思います。たとえばヘルパーさんがお家に行って頼まれることは、洗濯をしてほしいとか、体を拭いてほしいとか、ごく日常的な身の回りのことですね。そういうことですらそうなんですから、ましてや財産関係なんかに関係することをこうしてほしいとはっきり言いきれるかどうかということでも疑問が一つあります。それともう一つこれは年齢的なものですね。現場で見てると、80才ぐらいが一つのメルクマールではないかと思うんですけれども、やっぱり判断力が落ちてきます。先ほどの寸劇のおじいちゃんですが、周りから見るとやっぱりちょっとおかしいんじゃないかというように首をかしげるような部分がみなさんも感じられたかと思うんです。実際ああいうおじいちゃんいらっしゃいますよね。演じた方はもっと歳はずっと若いんでしょうけど、よく現実をとらえてるなというふうに思いながら聞いていました。例えばさっきホームヘルパーの話が出たので関連して話しますと、前の月のヘルパーの利用時間に応じて、市役所から通知が来るんです。あなたは何時間使ったからいくら払って下さい。どこどこ銀行で振り込んで下さいという通知が来るんですね。そうするとそれを見て、どうしたらいいんだいって言う方が多いんですよ。だいたい行政とか銀行とかから来る通知の書類っていうのは非常に分かりにくいんですよ、言葉使いが堅いし。かつては自分で判断して動いていたはずなんですが、そういう物を手にするとちょっとおろおろしちゃうというんです。結局、相談員に頼んでみたり、ヘルパーに何とかしてくれと頼んでみたりというようなことがかなりあります。これは痴呆でなくてもそういうふうになっているんですね、さっきおじいちゃんが書類を目から離したり近づけたりしてましたけど、目が悪くなることで残念ながらまず文章自体が読みとれなくなる。それから読んだとしてもなかなか理解できなくなります。そういう年齢的な問題と日本の中での今の高齢者といった問題と両方絡んできて自己決定というのはそう簡単な事じゃないと思います。
 それと痴呆がはいってきますとまたそこでもうちょっと違う難しさが出てきます。痴呆の方というのは、割と軽い場合はその場その場の会話は結構成り立つんです。他人が聞いててどこがボケてるのというぐらいの対応はするんですが、時間的な経過の中で肝心なことをちゃんと押さえてられるかというと、そういうところが非常に曖昧になってきます。例えばお金をおろしてほしいと言われて、おろしてきて手渡す。そうするとおろしてきてと頼んだことは覚えてますがおろしてきたお金を受け取った事自体は忘れてしまったりします。それが積み重なってきたときにヘルパーが取ったんじゃないか、とヘルパーを疑う。そういうケース結構あるんですね。それで家捜しをすると変なところからぽこっと出てくる。これはどういうことかといいますと、お金は生活をするために絶対必要な物で、お金に対する生活のリアリティーを持ってる人であればあるほどお金に執着している。これを持っていれば生きていける。痴呆になると相手が分からなくなるとか、場所が分からなくなるといった不安感が出てきますのでそういうものをお金にすがりつくことで少し安心したいという思いが多分あるんだと思うんですね。本人は意識してやってるわけじゃないんですけれど、そういうことになってくるとお金の問題は結構難しくなってくるわけです。そこのところに後見人だとか補佐人だとか出てきても、本人は関係が分かりっこないです。他人が自分のお金を管理しているっていうことに関してかなりの抵抗を示したり、ちょっとトラブルがあったりということも多く出て来るんじゃないかと思います。後見人は法人がなるというのがありますが、例えばよくわかりませんがホームヘルパーの所属している施設の法人がなったりとかということがあり得るのかなと思うんです。それはそれでいろいろな問題があると思うんですが、例えばそういう情況で、お金に関する問題について解りやすく、役に立つようにつないでいくような人が必要になってくるのかなと思います。ですから後見人とか補佐人とか法律上の選ばれた人だけではなくて現実にお年寄りとそういう制度を結びつけるような人間がいないと制度としては具体的には動かないじゃないのかなという気がします。そんなところでよろしいでしょうか。
石川(司会者)
はいありがとうございます。
結びつける人がいないとこの制度は機能していかないというお話だったんですけれども具体的に結びつけるということでしたらこれは後見人ということになるかと思います。後見人のことに移りたいと思います。まず最初に問題になるのは後見人は誰がなったらいいかという問題です。後見人の適確性の問題です。私障害者の方のヒアリング記録という本を読んだんです。そうするとここのところを一番心配してるんですね。後見人は誰がなるか、私のために誰が後見人になってくれるのか。私のために本当に一生懸命やってくれるのか。私のために本当にその人が親身になってやってくれるだろうかということを一番心配してる訳です。そういった意味で成年後見人に誰がなるかというのはその人にとって非常に重要なことなんですね。池田さん、この後見人の問題はどうとらえたらよろしいんでしょうか。
池田

今日お集まりのみなさまの中には、司法書士の方々をはじめとして社会福祉士ですとか福祉関係者の方もいらしていると思うんです。例えば司法書士さん、社会福祉士や弁護士さん達がその資格があるということだけで一番後見人としてふさわしいとは簡単にいえません。なぜかと言いますと、先ほどコーディネーターの方から自己決定権というお話をしていただきましたけれども、例えば福祉関係者には、この制度は自己決定権を守るためのアドボカシー=代弁という権利擁護のシステムであってそのために自分たちがいるんだという意識がまだ薄いんじゃないかと思っているんです。ですから障害者の方々が心配されるのもっともですね。この成年後見制度のシンポジウムをやりますと、障害者ご本人達がでていらっしゃって必ずこんな発言をなさる。「今まで一番私たちの権利を侵害してきたのは、親と福祉関係者じゃなかったか」と。また、こういう風におっしゃいます。「私たちは失敗するかもしれないけれど、自分で考えて決めてやってみる権利を一番侵害されてたんじゃないか。」福祉関係者はとくに思い当たってしまうんですが、失敗させちゃいけない、守ってあげなきゃ間違いがないように指導してあげなければという気持ちが非常に強いと思うんです。
 それは単純に間違っていたとは言えません。ただ、今後自己決定によって自己責任というような事があたりまえになっていく社会の中では、やっぱり本人の気持ち、本人の意思、本人の利益、本人の立場だけ考えて常に代弁する事、それが後見人の第一の職務がなんじゃないか。「私は社会福祉士です。」「私は司法書士です。」と言っても、「例えば財産管理、身上配慮についてはプロです。」ということだけでは、後見人としては、ちょっと違うんじゃないか。かえって、そういう気持ちが先にでてしまうと後見人にはふさわしくないということになるのではないでしょうか。例えボケても自分が人生の主役でいられるための権利擁護制度だとしたら、そこをまず理解しないといけないではないかと思っています。

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